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著者:: 難波優輝 ステータス:: 読了 読了日:: Tue May 19 2026 00:00:00 GMT+0900 (日本標準時)
第二に、プロジェクトは、「専門知」と称される技術・管理手法による「やり方」のコントロールが行われる。計画あるいはプロジェクトが実行される際には、エンジニアや経済学者などの専門家が多数動員され、「科学的」「客観的」とみなされる方法論が適用される(Escobar 1992, 149)。こうした専門家の介入によって、現場の多様な知識が一元的な知識のもと整理・管理される。
締め切りのなかでも、プロジェクトが生み出す締め切りこそが、私たちにくわるい時間>をもたらす。なぜなら、プロジェクトは、唐突に私たちの生きている時間)に割り込んでくるからだ。
それがどれくらいの工数なのか、どんな障害が起こりうるのかが定かではないことにある。収穫時期や祭りの時期については私たちは見通しがあり、わざわ 122 ざ予定を考える必要もなく、手続きややるべきことが明瞭に分かれている。しかし、プロジェクトは一回一回が私たちを素人にさせる。たとえ、障害対応に長けたプロフェッショナルがいたとしても、その人が慣れているのは、突発的な何かが起こり続ける、という予測だけであり、収穫の流れや祭りの準備の流れとはまったく違う時間の流れ方に慣れているだけだ。
一つの具体的な方法は、自分でプロジェクトをつくって、それから退散する、という「プロジェクトいじり」をしてみることだ。例えば、私は研究計画を立てるのが好きである。私は毎月の計画を立てたり、向こう半年間の計画を立ててみる。だが、たいてい守らない。三日も経てば、三ヶ月後にやろうとしていることに興味を失っていることに気づく。なので、自分でつくったプロジェクトを自分で壊して、また新しいプロジェクトを立ててみる。そうすると、次は自分の気に入ったプロジェクトであることがわかって、どんどん進めていける。
覚え書き: 哲学者の出す具体策
私たちの時間は、複数のモノや複数のヒトや複数の制度によって作られている。私たちがスマートフォンを持つことで、私たちの生活にヘスマートフォン時間>が挿入される。私たちが子どもを持つことで(子ども時間>が同時に動き始める。私たちが病気になることでへ病気時間>へとスローダウンする。私たちは、除な一つの、同じ速度の時間を生きているわけでもなければ、私たちが完全に個人の自分だけの時間を生きているわけでもない。 私たちがへ生きている時間>は、つねに加速し減速し、介入され、邪魔される、複数的な時間を生きているのだ。この複数的な時間を構成する複数の時間があり、そして、複数の<時計>たちがある。
覚え書き: 生きている時間の定義
これらは空間的な亡霊だが、時計的な亡霊を私たちは思い出すこともできる。 例えば、労働の時間割というと、いまでも「九時五時」が基本とされる。だが、保育園の送り迎えとこの時間はしばしば食い違い、ずれる。なぜか。それはそもそも、労働者が保育園の送り迎えをすることが想定されていないからである。 なぜだろうか。労働者として想定されてきたのは男性であり、そして、男性は「労働の時間」を生きる者であり、保育園に送り迎えをするのは、「家庭の時間」を生きる女性の役割である、とみなされてきたからではないだろうか。
覚え書き: 出退勤時刻と保育園の送り迎えがバッティングすること
もう一度「丁寧な暮らし」動画を眺めてみよう。ここには、時間が流れているのだろうか。過去の亡霊は可能な限り追い払われている。あたかも何の苦しみもないように。そして、未来の変革の可能性も取り払われている。心地よい「静的な現在」のみが作り出され、映し出されている。これは、へ生きている時間)ではない。へ死んでいる時間>だ。私たちの時間は、過去の亡霊と未来の可能性の間で揺れ動く、動的でかつ層状に折り重なった時間なのだから。
覚え書き: 死んでいる時間の一例
あなたは、病に臥せっているとき、少なからず安楽な気分を味わったことがないだろうか。普段の時間の拘束や要請から離れて、ただ、身体を治すために時間を過ごすことができる。そうしたとき、もちろん身体はしんどいし、精神も万全ではない。しかし、ここまでの話に倣っていえば、「他の時間に邪魔されない」という感覚があるだろう。このとき、私たちは、自分の時間を自分で使う、「時間権」とでもいうべきものを行使できている、と考えたい。ここで、「時間権」とは、自分の時間を158 自分の裁量で、自分の深い納得のもとで用いられるような、時間にかんする権利のことだと考えてみよう。つまり私たちが、自分の時間のなかで自律的に生きることができれば、私たちはいい時間>を過ごせる、ということだ。
覚え書き: 入院したい欲と近い。時間権おもろい。
時間を論じる人々の元ネタの一つは、おそらく、アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』における、物語的な美徳のビジョンだろう。マッキンタインは、なぜ人びとは道徳のイメージを喧々諤々議論しながらも一致をみせないのか、と問う。今はまだ発展途上なだけで、もっと議論すればいつか統一的な道徳のイメージが見えてくるはずだ、とはマッキンタイアは考えない。マッキンタイアは、人びとが古代のギリシアの美徳を見失ってしまっているからこそ、道徳的な意見の一致が生まれないのだ、と考える。では、古代ギリシア的な美徳とは何か。それは、自らを物語として語って生きることで生まれるもの。 物語的に生きることではじめて、人は美徳を発揮できるのだ、と主張する(マッキンタイア 1984)。
覚え書き: 物語時間の出典。
非物語的な精神医学アプローチについて研究しているサリー・ラサムとマーク・ピンダーは、人生を物語とすることを批判する。自己が自らの人生を語る過程で、当事者としてだけではなく、あたかも他者が自分を評価するかのような二人称的な視点を内在化する。これは一見すると自己理解の深化をもたらすかのように見えるが、同時に自己の感覚や記憶が外部の期待や社会的規範に染められるリスクがある。つまり、自己が自分自身の物語を構築する際、その物語は必然的に自己の意図や価値観だけでなく、他者からの評価というフィルターを通して再解釈されるため、真の自己がかすんでしまう可能性があるのだ (Latham & Pinder 2023)。
覚え書き: 物語的時間への批判。立場は近いけどあまり共感しない。個人的には物語的時間がよくないのは過度に単純化されてしまうこと。本当はすごく細かく物事が影響しあっていたり、意識外の経験や記憶に原因があったりすると思うので、単純化するとそういった細かい因果(断片でなく)が無視されてしまって軽視されそう。
遊びの五類型 私は、人間の実存に関わる「遊び方」を五つ---「物語」「ゲーム」「ギャンブル」「パズル」「おもちゃ」ーに分類し、それらがどのように組み合わされ、私たちの生のあり方を形成しているのかを考察する遊びの美学を研究している (難波 2025)。本章では、物語以外の四つの遊び方|すなわち「ゲーム」「ギャンブル」「パズル」「おもちゃ」に焦点をあて、それぞれがもつ独特の時間性、<時計>としての機能を考察したい。
覚え書き: 遊びの類型。zineやpodcastがどこにはいるんやろ?おもちゃかな。
ニーチェの思想の根幹の一つ、「力への意志」とは、困難に打ち克つこと自体を喜ぶ意志のことだ。多くの人は、自身になるべく困難が降りかからないほうがいい、と感じている。だが、ニーチェは、困難は避けられないのだから、それを克服することを楽しめばいいのだ、と言う。
覚え書き: 覚えときたい概念。ゲーム的時間で出てきた。
世界から切り離された時間 私にとって、パズルの時間とは、探偵小説を読んでいるときの時間だ。日常生活からは切り離されて、謎と向き合う。その謎の答えは確かにあるから、私たちは安心して謎に戸惑うことができる。それに比べて、日常生活の問題には明確な答えがない。この人と一緒になるべきか、あの学校とこの学校のどちらに行くべきか、あの会社とこの会社のどちらに発注すべきか。その選択が正しかったかどうか、死ぬまで、いや死んでも分からない。それゆえ、日常生活での悩みとは、なるべく避けたい、不倫快な困惑の時間である。しかし、パズルの時間では、悩むことそれ自体が喜びとなる。
覚え書き: パズル的な遊び大好き!
世界から切り離された時間 私にとって、パズルの時間とは、探偵小説を読んでいるときの時間だ。日常生活からは切り離されて、謎と向き合う。その謎の答えは確かにあるから、私たちは安心して謎に戸惑うことができる。それに比べて、日常生活の問題には明確な答えがない。この人と一緒になるべきか、あの学校とこの学校のどちらに行くべきか、あの会社とこの会社のどちらに発注すべきか。その選択が正しかったかどうか、死ぬまで、いや死んでも分からない。それゆえ、日常生活での悩みとは、なるべく避けたい、不倫快な困惑の時間である。しかし、パズルの時間では、悩むことそれ自体が喜びとなる。
覚え書き: パズル的な遊び大好き!
<いい時計>の条件 (1)多元的なへ生きている時間>を生きる人々にとって無理のないものである。 (2)多的な生きている時間>を生きる人々が共同で実践できるものである。
マーク・フィッシャーは「資本主義リアリズム」を批判したことで知られる思想家である(フィッシャー 2018)。ここでいう資本主義リアリズムとは、私たちの生きる世界は、資本主義制度しかありえないし、これだけがリアルな現実なのだ、という考え方のことだ。
覚え書き: 何にでも名前ってあるね。読みたい。
「ケイパビリティアプローチ」とは何か ケイパビリティアプローチは、人間のウェルビーイング(well-being)を「何ができるか=ケイパビリティ」と「何を実際にできているか=ファンクショニング」という観点で捉えようとする枠組みだ(以下 Robeyns & Byskov (2023) 参照)。ここでいうウェルビーイングとは、ひとまず幸福であることと言い換えてしまってもよいだろう。
覚え書き: 覚え書き
ケイパビリティアプローチは、資源からウェルビーイングへの転換率をコンバージョン・ファクターという形で捉える。そうすることで、人々がどこまで自由に、潜在的に「できること」、「できていること」があるのかを評価しようとするものなのだ。
覚え書き: おもろすぎる
1章は時計のデザイン 2章はプロジェクトと悪い時間 3章は生きている時間 4章は物語的時間でない複数のいい時間について 5章はいい時間を作るために 6章は死とデッドライン
時間のケイパビリティアプローチ ①時間自主性 どれだけ自由に時間の使い方が決められるか。 ②時間満足度 当人がどれだけウェルビーイングを感じるか ③ケア時間 家族コミュニティ自分にどれだけケアの時間を割けているか。
読後メモ とても素敵な本だった。本作りに対する美学を感じた。 まずは装丁。これは覚書不要かもしれないが、縦長の判型で文字が大きく行間がひろい。縦横厚さの比率が物体として美しい。カバーも余白が多く幾何学的で物体性をより強めている。 内容は誠実。無理のない論理構造と、自己批判をする箇所もある。引用を使って自分の意見を伝えるところは哲学者的。最後に文学的な表現を使った章があるのも素敵。作家的だと思った。 締め切りとの向き合い方として、いい時間を作るために、ケイパビリティアプローチという手法を導入していたことが面白い。数値化できないものを比べるための既存のアプローチを、時間の良し悪しについて転用するのは鮮やか。 他にも現象整理のための命名が、近しい概念の引用を加工して行なっていて、新規性と平等性を両立している。
時間的限界を持たない生というものは、もはや生ではない。それは円周を持たない円がもはや円ではないのと同じだ。だからある存在者の永遠の存在がどのようなものだとしても、それは単にわれわれの生がもっと続くといったものではない。(シェフテー2023,160)
エクスポート日: 2026/05/19 — 読書メモアプリより